陶淵明の世界

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 陶淵明:帰去来辞


陶淵明は、29歳の頃江州祭酒となったのを始めにして、断続的にいくつかの職についているが、義煕元年(405)41歳のとき、彭沢県令になったのを最後に、公職を退いて二度と仕官することはなかった。

「帰去来辞」は、すべての官職を退けて田園に生きる決意を語った詩である。陶淵明の人生の転機を語る詩であり、また田園詩人といわれた陶淵明の面目が遺憾なく発揮されている点で、彼の代表作というにふさわしい作品である。

職を辞するに至るいきさつは、序文の中に記されている。貧しさのために生活の資を得るために仕官したが、己の理想とする生き方に合わず、悶々としているところに、妹の程氏が死んだので、その喪に服すことをきっかけにしてにやめたとある。職にあった期間はわずかに80日余りに過ぎなかった。

宋書隠逸伝には、小吏の巡察を束帯して出迎えるよう命令されたことに対して、「我五斗米の為に腰を郷里の小人に向って折る能はず。」といって、自ら帯を解いて職を去ったと紹介している。

どちらも、陶淵明にしてありうることである。学者の中には、当時官から民へと下野するときの仕上げのポストとして、県令のような職があったとし、陶淵明も当時の慣例に従って、県令を経て引退したのだと考証する者もいる。


―歸去來兮辭 序

  余家貧,耕植不足以自給
  幼稚盈室,瓶無儲粟,生生所資,未見其術
  親故多勸余爲長吏
  脱然有懷,求之靡途

  余家貧にして,耕植するも以て自ら給するに足らず。 
  幼稚室に盈ち,瓶に儲粟無く,生生資する所 未だ其の術を見ず。 
  親故多く 余に長吏爲らんことを勸む。
  脱然として懷ひ有り,之を求むるに途靡し。

自分は貧しい生活の中で、農耕に励んでも自給もままならぬ、子どもらは家に満ちて常に腹をすかせているのに、ろくに食べさせるものもない有様、そんな自分の窮状を哀れんで、親戚が心配してくれるが、仕官のあてもない状態だった。(耕植は田畑を耕すこと、儲粟は、穀物の蓄え、四方の事とは当時桓武玄や劉裕を巡って世の中が乱れた有様をさす、家叔は伯父、彭澤は江西省にある地名、眷然は反省するさま、矯勵はたわめ直すこと、一稔は秋の収穫、駿奔は急ぎ葬儀に馳せつけること、)

  會有四方之事,ゥ侯以惠愛爲コ
  家叔以余貧苦,逐見用于小邑
  於時風波未盡,心憚遠役
  彭澤去家百里,公田之利,足以爲酒,故便求之

  會ま四方の事有り,ゥ侯惠愛を以てコと爲す。
  家叔余の貧苦なるを以て,逐に小邑に用ゐらる。
  時に於いて風波未だ盡きず,心 遠役を憚る。
  彭澤は家を去ること百里,公田の利は以て酒と爲すに足れり,
  故に便ち之を求む。

ところが運良く世の中が変わり、諸侯が人材を求めていることに乗じて、職につくことができた。彭澤は家からもそう遠くはないし、収穫をもって酒を作ることも出来る。

  及少日,眷然有歸歟之情
  何則,質性自然,非矯勵所得
  饑凍雖切,違己交病
  嘗從人事,皆口腹自役
  於是悵然慷慨,深愧平生之志
  猶望一稔,當斂裳宵逝

  少日に及びて,眷然として歸らん歟の情有り。 
  何となれば則ち,質性の自然は矯勵の得る所に非らず。
  饑凍切なると雖も,己に違はば交ごも病む。 
  嘗て人事に從へるは,皆な口腹自ら役せり。 
  是こに於いて悵然として慷慨し,深く平生の志に愧づ。 
  猶ほ望むは一稔にして,當に裳を斂さめ 宵に逝くべきを。

しかし少日にして帰りたいとの気持ちが強まった。自分の天性はそう簡単に変えられるものではない。いくら生活のためとはいえ、平生の志を曲げるのはつらいことだ。秋の収穫を得たら、さっさと夜逃げしよう。

  尋程氏妹喪于武昌,情在駿奔,自免去職
  仲秋至冬,在官八十餘日
  因事順心,命篇曰「歸去來兮」
  乙巳歳十一月也
 
  尋で程氏の妹武昌に喪せ,情は駿奔に在りて,自ら免じて職を去る。 
  仲秋より冬に至るまで,官に在ること八十餘日。 
  事に因り 心に順ひ,篇を命じて「歸去來兮」と曰ふ。 
  乙巳の歳 十一月なり。

そうこうするうち、妹が死んだ。ことここにいたっては、一刻も早く逃れたい。葬儀に参加することを理由にして辞職しよう。

以上が、陶淵明があらゆる職を擲って、二度と仕えることを欲せず、残された生涯を田園に埋めようと決心したいきさつである。詩であるから、誇張や創作が混じっているかもしれない。



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